震災二ヶ月 その後は!?
早いもので3・11から二ヶ月が経ちました。
毎日報道されていますが、原発といい、津波のガレキの撤去といい、あまりの広さのせいもあり、遅々として進んでいないような感じです。
二度目の陸前高田に12日に行ってきました。
今回はおでんの差し入れと写真の復活のお手伝いでした。
おでんは具を製造している「かまたけ」さんから提供をいただき、写真は私の友人の「山中スタジオ」さんが写真の修整をしているので、多少キズがあっても泥をかぶっていても復元させてあげられるとのことで、行ってきました。
今回はハプニングの連続でした。
本来は避難所で、差入と写真をやるつもりでした。
ところが行ってみるとその朝に避難所は解散でした。
もう誰も避難所にはいません。
ちょっと離れた「竹駒小学校」のグランドにできた仮設住宅に移動していました。
でも皆さん昨日・今朝に移ってきたばかりで、地域も三ヶ所から合流しています。
まだ七つ道具(エアコン、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、レンジ、ジャー、ポット)はありますが、あとは何もなくガランとした状態です。
朝には雑貨が届いていました。
不幸中の幸い、本来の差入ではなかったのですが、引っ越された皆さんも食事の支援は朝で打ち切られ、昼からは食べるものすらない状態です。
そこでお昼の「おでん」でしたから、皆さんに本当に喜んでいただけました。
100個の丼を用意しましたが、途中で足りなくなり、洗って回収して提供を続けました。
写真もお父さんの破れた写真を持ってこられた方がいて、それも修復可能ということで、とても喜んでおられました。
これからもこのお手伝いも続けていきたいと思います。
もう一つの幸いは、前回に載せた「鎌倉子どもチャリティ」の「井上アンナ」さんの小学校への英語の授業のお手伝いもここの校長先生と直に話しができて、見通しが立ちました。
今回はそのあと隣り町の大船渡も見てきました。
こちらは人口4万人くらいで、陸前高田よりは倍近くの大きな町です。
こちらの港の被災状況も相当なものでした。
電柱にチリ津波の時の高さを記してありました。
そこには「災害は忘れた頃にやってくる」 昭和35.5.24 5.6Mとありました。
その時にも市内は一度水没していたのです。
今回はその何倍もの津波になったのでした。
ガレキの道端に額に入った写真がありました。
いまだに残っているのは、もしかするとご家族が全て亡くなっているのかもしれませんね。
大船渡は、港で重油が流れたようで、その跡がくっきりと残っています。
まるで外壁を色の塗り替えをしたかのような鮮明な色分けになっていました。
いよいよ仮設住宅に移り始めたのですが、本当の支援はこれからの気がします。
まずは仕事の確保、そして自立に向けた障害が立ちはだかると思います。
お年よりは近所には、何一つないところで買い物もままならず、食事の用意からしてどうするのかと心配になるくらいです。
これからも逗子の仲間は継続して、様々な支援を続けていくところです。
またレポートします。