『陸前高田 戸羽市長は語る』被災地の本当の話をしよう ~未来の為の今を創る~
7/20に逗子葉山青年会議所の主催で、「陸前高田市 戸羽市長」の講演会がありました。
しびれましたね。泣けましたね。

お話しは新聞にもテレビにも出ることのない、驚きの生々しい話でした。
陸前高田市 死亡 1556名 今なお不明者 217名 職員の死亡 68名
職員、消防士の人たちは、危険を顧みず老人や弱者の人たちを誘導している時に波に呑まれた人が多いのです。
津波の訓練もしていて、それまでの予測では津波は50cmから1mと言われていた。
そこで安全と言われている建物に逃げ込んだが、15mを越える津波に巻き込まれて被害が拡大したようです。
その後の国とのやり取りでの例では
◆ガソリンの話◆
・市内ガソリンスタンドは壊滅
・遺体の確認に動くにも、人工透析の人などもいる。何をするにも燃料がいる
・ドラム缶で受入れが決定、給油を自衛隊に委託
・そうしたら経産省から横槍り、ガソリンは経産省で用意したもの、防衛省ではないので、
自衛隊に給油を委託してはならぬと電話のやりとり
※とにかく行政は縦割りなんですね、非常事態なのにびっくりします。
◆高台移転の問題◆
・ルールが厳しく、移転が進みにくい
・土を埋めるにも地権者の承諾が必要、地権者は九州からロシアにも広がる
※こちらも特区をつくるなりの特別はないようです。
聴衆の皆さんは、そんな国とのやり取りを聞いてて、憤りを感じていました。
それが報道されない生の実態なんですね。
市長は最後にこれから目指すものはということを話されました。
それは今の大人の世代を中心に考えるのではなく、子供たちへの復興を推し進めたいと語ってました。
子供たちの生まれ故郷を魅力ある町にして、暮しやすい誇れる高田にすることが子供たちの未来を輝かすことに
つながると熱く語ってました。
復興までの道のりは気の遠くなるほどの長い時間を要するわけで、私たちも「忘れないつないでいく」という
気持ちを強く持ちました。
一時間ちょっとのお話もあっという間でしたね。
その後はこれまでいろんな形で支援活動をしてきた団体がパネラーとなって、
市長のお話の感想ややってきたことの紹介となりました。

私たちは陸前高田、それも竹駒地区に絞り込んでこれまで2年間活動をやってきました。
他には南三陸に太いパイプで活動していたり、地元の女性の人たちと活動を続けたりと様々です。
これからも私たちは陸前高田で、「バクテリアdeキエーロ」を作くり、逗子の市内で設置を広めていき、
現地の雇用を広げることや、逗子でのごみ問題に取り組むことで環境問題にも貢献しようと
考えていますと発表しました。
閉会後市長は出口で皆様に挨拶をされていました。
今年の3.11で書き添えてもらったパネルと一緒に記念撮影をしました。

このパネルは来月の陸前高田の動く七夕にもって行き、市役所や多くの方の目にとまるところに
設置してもらうことになりました。
その後懇親会が設けられていて、また市長といろんな続きの話をお聞きしました。

公では話さない個人的なのことをいろいろお聞きしました。
市長は震災の一ヶ月前に市長になったばかりでの非常事態発生。
ご自身も自宅を流され、奥さんも亡くし、今は中3と中1になった男の子と暮しているようです。
その子たちは今は涙を見せずに気丈にやっているようです。
自分は地震直後家に戻り家族の安全を優先すべきかどうかを悩まれたようですが、結果は庁舎に残ったわけです。
そこで奥さんは亡くなり、自分が捜索願の列に並んで出せるわけもなく、何もしていなかったようですが、
当時小6の長男が届けを出したそうです。
4/5に発見されたようですが、その日は奥さんの誕生日。
死に顔は変わり果て、とても子供たちには見せられなかったとのこと。
しばらくは子供たちにお母さんの死を伝えることもできなく、大船渡での葬儀の朝に小4の次男に伝えたとのこと。
次男はその後3日間泣き続けたようです。
陸前高田には片親を亡くした子供は168名で、両親を亡くした子供も40名弱おられるようです。
とにかくそうした子供たちの将来を輝かそうと市長は考えているのですね。
何と恵まれた環境に自分たちはいるのだろうと考えると、少しでもいき長くお手伝いを続けていかなければと思いました。
大変に長い文章になってしまいましたが、最後までお付き合いをいただき感謝申し上げます。